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赤松姓で政治活動をしていた時期について





池田和隆には赤松和隆と名乗っていた時期があります。

 ここでは池田和隆が赤松姓を称し、再び池田に戻ることになった経緯についてお話しします。

 それは平成15年のことでした。当時の奥様のご実家に一通の手紙が届いたことに始まります。

 手紙は兵庫県赤穂市役所からで、内容はご実家の親戚にあたる人の土地に関して、それを赤穂市に譲ってほしいというものでした。

 私が国家議員の秘書だから詳しいだろうと思ったのでしょう。ご実家から彼女を通じて私に相談がありました。

赤穂市からの依頼は赤穂城址公園を拡張するにあたって、件の土地が計画範囲内なので収用したい。

という私には手馴れたもでしたから、どのようにすれば良いかをお答えしました。

 ただ、それよりも気になったのはその土地が赤穂浪士で有名な大石内蔵助の敷地跡に建つ大石神社の目と鼻の先、旧赤穂城内にあったことです。

興味が湧いた私が幾つか質問をしていくなかで、私にとっては衝撃的な事実が判明したのです。

 ご実家の本家筋にあたる家が播州(兵庫県)の室町時代の豪族赤松氏に連なる名家らしいというのです。

ただ、先代までは本家親戚筋から何度も養子を取って家名を維持してきたが、今の時代もはや断絶状態であるとも。

 大の歴史好きとしては俄然興味が湧きましたね。

播州赤松氏といえば守護大名としては戦国時代を待たずに衰退するものの、何せ徳川家より古い大氏族です。戦国時代末期に嫡流と目され赤松を名乗っていた本家は関ヶ原の戦いで大名としては完全に滅亡しました。

しかし、別所氏や尼子氏、黒田官兵衛父子が仕えていた小寺氏など、様々な姓を名乗る支族が大小名となって生き残っています。
現在も科学的根拠はともかく、この赤松氏の流れである、と名乗っている赤松姓の方も数多くいます。

 件の赤松家もそんな家名伝承を持つ旧家のひとつには違いありません。


 後に私が聞き取り調査などで調べたところ、どうやら私の赤松家は明治以前は有名な赤穂浪士事件の浅野家の後に赤穂に入り明治まで続いた森家(織田信長の小姓森蘭丸で有名な森家です)の家臣となり蘭学に関わっていたようです。

明治後は旧士族として明治政府に仕え警察署長などを歴任していたそうです。そんな赤松家も戦後の様々な事情でかつて所有していた様々な伝承の品やら家系図などは全て散逸してしまっていました。
件の土地もそのひとつだったようです。

 いずれにしても名家です。
少なくとも4代前の伝承にすら遡れない由緒正しい平民の我が池田家と比べれば圧倒的名家です。
私が断固継ぐべきだと思いましたね。これも何かのご縁です。


 多くの人に協力してもらい何とか養子縁組を行って平成16年から正式に赤松和隆になりました。
 晴れて赤松に改姓した私は、親分の故松岡大臣にも相談し諒解をいただき、世間的にも赤松を名乗ることにしたのです。

 しかし、これが私が思っていた以上に混乱を招き、多くの人に無用の迷惑をおかけしてしまうことになってしまいました。
 友人知人が呼びなれないのは結婚して姓が変わった女性にも経験があることでしょう。そのうち慣れます。

 問題は私が有名だったことです。その上時期も悪かった
 結婚しても職場では旧姓のままでいる女性の気持ちが理解できた時には手遅れでした。


 「松岡大臣の秘書官誰だ?」事件の勃発です。


 松岡さんは平成18年に念願の農林水産大臣に就任し、私が大臣秘書官に任命されました。

大臣になる以前から農林族のドンとかボスと呼ばれていた松岡さんですが、「松岡事務所の池田さん」は特に霞ヶ関界隈ではある意味松岡さん以上に有名だったです。

 松岡さんが大臣になるや否や、農林水産省始め多くの役所の人が私に電話をしてきて言うのです。

「大臣ご就任おめでとうございます。……ところで、今回大臣秘書官になられた赤松さんてどういう方ですか?私はてっきり池田さんが秘書官になるものだとばかり思っていたもので……」

「……ぁ、すみません、それ私なんです……」

このやり取りが10回や20回なんてものではなく延々と繰り返されたのです。


 また、池田・赤松問題が混乱を招いた騒動で世間的にも有名なのが

「松岡大臣の秘書官、二つ名を使い分けてるんじゃないか」事件です。


民主党(現なんとか党)の馬淵澄夫という論客気取りの国会議員が噛み付いてきたのです。

 当時野党最大の攻撃目標にされてしまうほど族議員として雷鳴が轟いていた松岡大臣は連日国会で様々な疑惑を野党から攻撃されていました。
 某氏はそのひとつを追求するための突破口に池田・赤松問題に焦点を当てて攻撃してきたのです。


 詳細はググっていただけばヒットするので割愛しますが、おかげで私は衆議院の予算委員会や衆議院本会議の議事録に池田、赤松両方の名前で記録されるという前人未到の栄誉をいただきました。


結果的には改姓という私個人の問題なので当然問題にはならず、その疑惑追求は立ち消えになりましたが、確かに自らの影響の大きさを自覚せず、しかもややこしい時期に名乗りを変えたのは今思えば浅はかだったと反省しています。

 そんな赤松家継承が終わる時がやってきました。


 松岡さんが亡くなり、私自身の選挙も供託金没収という完敗に終わって東京に“逆都落ち”してから数年後のことです。

 当時の奥様と離婚することになったからです。

 自ら望んで挑んだ選挙ですから私に悔いはありませんが、敗残の将としての塗炭の日々を彼女にも味あわせてしまっていたので見限られても当然です。


名家赤松の名は本当は名乗り続けていたかったのですが、元はと言えば彼女とのご縁がくれたものですから、これも何かの巡り合わせだと離婚を機に返上することにしました。


 こうして私の名家を気取る束の間のは覚め、生まれたままの、正真正銘の庶民池田和隆に戻ったのでした。